『侠骨記』       宮城谷昌光 著    講談社文庫

                      

   久しぶりに中国の歴史小説を読んだ。時代背景がすっかり頭から抜けている…。「史記」の登場人物の名前はかろうじて覚えているものの、エピソードはまったく出てこない。最近、白髪を見つけては根本から切るという不毛なことをしているが、髪と同じく記憶も磨耗しているんだなぁと寂しくなったりして。はぁ。

 シンプルに読んでしまえと開き直れば、うっすい予備知識でもこの短編小説集は楽しめた。しばらくぶりに会った「徳」という言葉。いろんな解釈があった気がするが、本書「買われた宰相」より抜粋―
 「徳とは、みえにくくわかりにくいものだが、あえていえば、『許す』と同義語になる」

 なるほど。

 そういえば、この短編集には、「許す」名シーンがいくつか出てくる。 例えば「侠骨記」にて。曹?が戦いに負け、責任を感じて自害を決意した場面。剣を抜いた瞬間、宅内が騒がしくなり、主君からの使いがやってくる。

 「このたびの、曹?の軍配には、いささかの落ち度もなく、よって謹慎する必要もなく、また自害などはけっしてならぬ。君公はそう仰せです」

 許された彼は、その後、国のために大胆な一幕を演じることになる。

 伝説の聖人・舜を主人公に据えた「布衣の人」では、許す場面が何度か出てくる。家族とうまくいかない舜は、何度となく、父から母から弟から命を狙われるが、そのたびに難を逃れる。そして、弟を抱きしめて言う。「おまえのような兄おもいはいない」。また、父が亡くなったときは、「最大の批判者をうしなったことをかなしんだ」。聖人・舜の話だけにデキすぎているけれど、「許す」ことができる人は徳を身に付け、大人物になりえるのだ。

 「許す」って結構大変だ。「許してしまえば楽になるのに」と思うこともある。「許して」しまって、再度、迷惑をこうむることもあるから油断もできない。何度でも「許す」ことが「徳」に繋がるのか。大人物になる前に、疲れきってしまいそう。凡人だもの。 (真中智子)



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